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犠牲者をやめるとき

犠牲がまるで美徳のひとつのように思われた時がありました。
自分のことを後回しにしてでも他に尽くす姿、これは特に思いやりのある日本人にとって好意的に捉えられやすいのかもしれません。

そこからマザーテレサ的な”慈愛”を感じとる人も多いでしょう。
ボランティアをしている、と聞くだけで=素晴らしい人として印象付けられるのも、美しいイメージに繋がっているからでしょう。

やりたくないことでも誰かのために尽くすことは、成熟した人間ができることであり、それこそが愛のある行動で見習うべき姿である、といった印象。
長い間、そう信じられて来ました。

しかしながら、それは誤まった思い込みに過ぎないのです。

こんなに大変なのに、他人のためにがんばっている私、というポーズを周りに見せるのは、心のどこかで自分を認めてもらいたいと思っているから。褒めてもらいたいから。
その気持ちはわかります。
けれども、本当はしたくもないことを嫌々している思いがある限り、その行いは決して美しいエネルギーとして届かせることはできません。

マザーテレサが美しいのは、誰かの犠牲になっていたわけでもなく、認めてもらいたくてやっていたわけでもないから。ただ自分が決めた道を、信念の元に淡々と行い続けていたからだと思います。
だからそこには歪んだエネルギーは存在していないのです。

すべてにおいて、決断したものの全責任は、自分にあります。

「この人のせいでどれほど自分の人生が狂ったことか…」と恨みたくなったとしても、自分以外の誰かに責任を負わすことはできないのです。それは、どんな状況であれ、最終的にそれを行うと決めたのは自分自身だからです。

もし今のあなたが、本当はしたくもないのにやることを選んでいるとしたら、心のどこかで他からの評価を欲しがっている自分はいないか、という点も探してみて下さい。

子供の頃に親に思い切り甘えられなかったり、褒められなかった寂しさから、犠牲的な行動をすることによって、その時の愛を今もらいたがっている可能性はないでしょうか。

仮に一時的な満足を得られてもそれは一瞬のこと。
心から行なっているものでない限りは、寂しさや、つらさから離れることはできないでしょう。また周りの反応が期待はずれだった場合「わかってくれない」と攻撃因子が動き始める可能性もあり、いずれにしてもいい方法とはいえないのです。

犠牲になっているという思いは、もっとも自分を痛めつけ、歪みを生み出します。

だからこそ少しでも誰かのせいにしようとする要素があるものならば、その選択はすべきではないのです。
後悔をしない選択をする。
誰のせいにもしない心がまえを持つ。

それが何かを決断をする時に覚えておかなければならない大切なルールです。

Chie

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